がん治療 休職日記 毎日日曜日

がん治療で休職しました。休職後の生活の変化とがん治療、抗がん剤の副作用について書いています

がん治療 休職日記 毎日日曜日 楽園

 サラリーマンを長くすると、よく聞くフレーズがあります。「あいつ使えないな」です。

 「使える」「使えない」なんて、何に直結しているのでしょう。仕事の進捗に対しての推進力、進捗にとってのブレーキ、そんな差でしょうか。人を表現する言葉としては、人を道具としか思わない時でないと使わないフレーズです。

 

 世の中には少数派ですが、人を人として見てくれる上司もいます。サラリーマンでも常に「使えるか」「使えないか」の道具である必要はないのです。ただ、人として見てくれる上司なんて少数派。サリーマンが上司次第というのは仕方の無いことなのかもしれませんけれど。

 

 慎重で仕事の進みが遅いと思われると、地味で地道でコツコツ仕事をする真面目なスタッフも「使えない」と表現されることもあります。結果だけをただ報告されれば、派手で、配下のスタッフの成果を横取りするようなスタッフがどんなに薄っぺらでも、「使える」スタッフと表現されることもあるでしょう。こんな評価に一喜一憂する傾向をサラリーマンは持っています。習性なのでしょう、競争原理の中にいる者の。

 

 どこからともなく、声が聞こえてきます。「人を使える使えない、そんな物差しで見ない、そんな楽園に行きたい、人を道具として見ない楽園」。「使える、使えない」で判断されない世界を「楽園」とするならですが。

 

 競争原理から解放されるのは、仕事を辞めた時、老後が想像しやすいです。定年して競争する必要がなくなった時。どんなスタッフでも仕事をしている時は、競争から脱落した多くの同僚達を横目で見ていると思います。そんな風景を思い出しながら、定年、その時は来ます。

 

 ただ、仕事人間ほど、老後にも関わらず、かつての役職なり企業名なりを引きずっています。「俺は以前〇〇会社で役員だったんだぞ」と、定年後にも関わらず、かつての名詞の肩書きでクレームをつけているおじさんを見たことがあります。

 定年後にかつての肩書きなんて全く無意味。何に影響すると思っているのでしょう?クレーム中にそんな発言するおじさんいたら、頭のおかしな人と思ってしまいます。何度も言います。クレーム内容とかつての肩書きは何の関係があるのでしょう?

 

 はっきりしているのは、老後は新しい生活をするのが本来。その本来の姿を持たない生活者になんかなりたくないという事。

 

 さて、休職はどうでしょうか。仕事をしません。よって競争原理にさらされることも、「使える」「使えない」で判断されることはありません。競争のない世界の生活。つまり休職中は「使える」「使えない」では表現されない「楽園」です。

 

 「楽園」の住人になった私は競争がないのでストレスフリー。40年近くあるサラリーマン生活の途中で、一時的でも「楽園」に住んでいます。休職中には、時間の自由、空間の自由、スケジュールの自由、行動の自由があります。豊かと感じる所以でもあります。

 一方で、途中で脱落した同僚達に数えられるのでしょう、そして私がその価値観を気にならなくなっています。