がん治療 休職日記 毎日日曜日

がん治療で休職しました。休職後の生活の変化とがん治療、抗がん剤の副作用について書いています

がん治療 休職日記 毎日日曜日 主治医が変わる

 がんの再発で、主治医が変わりました。

 

 再発したのは直腸がん、私にとって2度目の直腸がんです。その時、転移がんの肝臓がんで、胆肝膵外科にかかっていましたが、再発の検査結果を持って、主治医変更です。大腸を専門とする主治医になります。

 

 その時の主治医から、「大腸を専門とする主治医の所へ行って下さい」と言われ、急な変更でした。元々が直腸がんでしたので、本来の主治医になるということかも知れませんが。それでも、そう告げられると、驚きます。

 主治医との関係というか、人となりや口調や過去と今の私の症状から、治療方針を告げてくれた医者です。こうした関係が断絶する気がしたのです。

 

 指示通り、私にとっての新しい主治医の元に行きます。改めての関係構築です。先生も私に言葉少なく話す印象です。主治医から見たらどんな患者なのか?というなのでしょう。

 しかし、不思議なものです。会って診てもらううちに言葉数も増え、大腸の先生とのやり取りもどんどんスムーズになります。緊張しながら始まった関係構築が進田でいると自覚できます。

 

 一般的にですが、専門家は「どうなるか分からない案件の先を、当たらずと言えども遠からずで分かる人」かと思っています。そういう意味では良い主治医に巡り合ったと思います。

 理由は簡単で、私の症状への処置がことごとく当たるという結果があるからです。最初の主治医が合わないという意味でありません。

 

 セカンドオピニオンを受けて欲しいと言った最初の病院で、胆肝膵外科に行けと教えられ、今の病院に転院でした。ただ、元々直腸がんで治療が始まったのですから、大腸専門の医者のもとに行っても良かったのかも知れません。

 

 巡り巡ってこうなるものかと思うような、スムーズな関係構築が治療に良い効果があったと思ってます。人と人ですから合う合わないこともあるでしょう。それでも信頼関係が構築されると患者は楽です。こちらが言いたいことがすぐ伝わるのですから。

 

 病院の中の一期一会です。

がん治療 休職日記 毎日日曜日 かつての自分に戻れるか

 がんとなって最初、仕事しながらの治療をしました。いわゆる「ながら治療」です。

 

 ただ、最初の抗がん剤治療は私の知識不足で、酷いものでした。体重も11kg減りましたし、下痢や嘔吐、倦怠感や疲労感へ対処も大変でした。食べるものも食べられず自分でもどうなるんだろうと、不安というか先のことが分かりません。

 

 そんな中、主治医から減薬と飲み薬の変更の提案を受けます。今なら自分から相談できる内容ですが、その時は言われるまで副作用を我慢するものと思っています。

 変更後急に楽になります。痩せたとはいえ動けますし、食事も喉を通ります。そうすると人間欲が出るもの。会社戻って以前を取り戻そうとするのです。私もまた同様で、身体の事情を伝えながらも時間を決め社に復帰します。

 

 いない時間は会社に迷惑をかけました。なので余計に社に戻ってその分を取り返そうと思います。少しづつ勤務時間を伸ばし元に戻そうと努力。その間抗がん剤治療は続けながら、切除手術まできっちり勤務しようと思います。

 

 自分としはできる限りのことはしました。今までの自分を取り返せそうと躍起です。

 ただ実際は、身体に起きたことを考えると同じ訳がないのです。切除手術と術後の療養を終え、社に戻った時、多くの同僚は私の体調に気を配ってくれました。私も精一杯頑張ろうと思いながら、現実、無理できないことも十分に承知しています。

 

 そして分かります。私が考えていたのは。「今の自分と過去の自分との比較」だと。世の中生きていくのに、他人と比較するなと言われます。私の場合は他人との比較ではなく自分の比較です。ただ、明確に今までとは違う身体でありながら、自分の過去との比較をしてしまったのです。

 

 本人の気持ちや精一杯取り組んだという満足感を手に入れても、実際としては、社の評価は得られません、今までと稼働が違うのですから当然です。30年近くサラリーマンをやってきて知っていたはずの現実があります。つまりは評価を見てがっかりしてしまったのです。

 

 過去に戻れる訳はないし、もちろんダメージを受けた身体も元には戻りません。そこからできることを新たに考える人生があるのみなのです。比較は正しく行わないといけません。かつての自分には戻れないのですから。

 

 そんな明らかなことを自分に改めて言い聞かせます。そして、だからこそ自身の世界が広がったと今は思います。

がん治療 休職日記 毎日日曜日 親思う心にまさる親心

 初めてがんになった時のこと。

 

 私は、掛かり付けの病院の検査でがんとわかりました。そのまま入院、大きな病院に転院までの処置でした。その5日間の間に実家の両親が見舞いに来たのです。

 

 父は言います「健康に生んでやれず悪かった」。ただがんは今では2人に1人の病気。気にやむことではありません。老齢に両親は東京まで来るには大変だったろうと、その方が私には気になったものです。

 

老齢な両親でも私はその子。中年となった40代後半の息子でも気になるのでしょう。しばし病床にいて帰っていく両親の小さくなった感じだけが記憶に強く残ります。

 思い返すと両親は私達兄弟の健康の心配ばかりしていました。子供の頃から健康を気にしてもらいながら私は成長して、今また健康で両親に心配をかけます。

 

 がんとは時めて聞いた時、私は自身の人生もここまでかと思いました。きっと両親も心の中では同じだったと思います。その時、先に逝く私は両親に何をしてあげられるでしょう。ベットの上で真剣に考えます。そして、その時思いつきます。

 

 「そうだ、先にあの世に逝くのだから、先に祖父母に会って、両親の伝言を伝えよう。そして、両親のどっちかが先か分からないが、お迎えが来た時、私もその中にいて、あの世からのお迎えだと分かり易い存在として役立とう」と。

 

 実は、両親が帰る前に、「じいちゃんとばあちゃんに伝言があれば、先に逝って伝えるよ、しっかりあの世伝えるから、そして、お迎えの時には僕が迎えに来るから分かりやすいよ」と。

 両親はキョトンとしていましたが、まぁ言いたいことは分かった。兎に角これからの身体を大事にしろと、そういう内容で切り返されたと記憶しています。

 

 「親思う心にまさる親心」とはよく言ったものです。私も一児の父ですが、その親心を持つでしょうか。反発して好き勝手して生きていた時もあります。実家を兄に任せ、東京で1人働いて改めて家族を持ち住処を持ち子を持ったのです。

 

 私も私の息子に、私の両親が持っていた親心を持って成長を見ていきたいと、思うのです。

がん治療 休職日記 毎日日曜日 孫

 がんと孫について。私が最初がんになった時、息子は13歳でした。

 

 13歳の息子とがんについて話すと言っても、病状を言うしかありません。家族なのですから、何も知らずにいるより良いのではと思っていました。心配を増長するような言い方しません、客観的に症状を言うのみです。

 

 話の最後に私が息子に呟きます。

 私「もう孫の顔も見られないかもな、そこまで長く生きている分からないな」。

 息子「お父さん、僕は陰キャだから、結婚できないと思う。だからお父さんが健康で90歳まで生きても孫の顔は見られないよ」。

 

 息子がそんなトンチみたいなことを言うとは、笑いそうでした。私を安心させたかったのでしょうか?何でしょうか?病状の話が急に家族団欒のような雰囲気に変化します。

 

 実は、最初の更に最初、がんと分かった時には、居間で息子が私に向かい言ったのです。

 「お父さん、僕、学校辞めなきゃだめ?」

 

 私学に通う息子は、病気で学費なり、家族の状況の変化なり、なんらかの不安があったのだと思います。13歳でもそれなりに心配して、身に起こるかもしれない不安をストレートに口にしたのです。

 

 父親として息子の心配を取り除きました。親として思うと、息子の成長を感じる時でした。

 困難には家族で立ち向かうものと思う私は、自分の環境が変わる予感を不安に満ちた言葉で、真実を聞き出そうとする息子の成長がうれしく思いました。同時にがんの治療が始まる私は、自身の不安とも戦うのです。

 

 どんな事情があっても、孫は見られないと言うのは不安吐露後の話です。色々な経験をして、私が成長するように、息子も成長していると思いました。そのことは、身に染みるものが何か分からないながら、泣きたくなるのでした。

 

がん治療 休職日記 毎日日曜日 座椅子に座る

 がん治療で、抗がん剤治療後の倦怠感は、辛いものがあります。

 

 抗がん剤を投与された直後はフラフラします。帰宅後もなんとなく気持ち悪いものです。身体も動かせたくなく、じっとしています。居間の座布団に座って兎に角じっとしています。そうれしかできないのではありません。まぁ言ってみれば、動きたくない。

 

 そんな姿を毎度見るからか、家内が座椅子を買ってくれました。同じ座るでも背もたれががる方が楽なのではという気遣いです。確かに背もたれがあると楽。私も座椅子にいる時間が長くなります。長くなったと言っても、座っているだけ。

 

 抗がん剤朝では、気分的に回復してきたと思っても、不規則に気持ち悪さと、倦怠感、疲労感にさいなまれます。座椅子はそういう私にとって書くべからざるものになりました。

 

 最初の座椅子は本当に簡易な座椅子。家内が緊急で買ってきてくれたので、とてもシンプルなもの。座椅子で過ごす時間には眠い時間もあります。その際に、背もたれでなく、座椅子ごと後ろに倒れて、そのままバランスとって昼寝をしていたこともあります。

 家内からは「曲芸でしょうか?」と言われました。それだけ定着しています。その後リクライニングの機能が壊れ、新品を購入。新品は前のものより少し大きいタイプ。どっしり座った感があります。

 

 この4年間、抗がん剤治療をしながら、がん切除手術も受け、その間家で過ごす時には、随分と座椅子にはお世話になりました。私の居場所となったのです。辛い時、布団で横になろうかと思うこともしばしばありました。それでも起きていたほうが、体力を使うことでもあるかと、背もたれにもたれていました。

 

 私にとっては、治療で苦しい時の過ごす場所となります。辛い治療でもどう過ごすか、それぞかと思いますが、なんとなくこれで抗がん剤治療時間を過ごせるなら、そんな日常もあろうかとも思うのです。

 

 子供の頃、実家の祖父母は座椅子を使っていました。私はまだまだあの時の祖父母の年齢には届きませんが、背もたれに助けられ座っている時間を過ごすのは一緒です。そんな昔を思い出しながら、今日も座椅子に座っています。

 

がん治療 休職日記 毎日日曜日 セカンドオピニオン

 がん治療でセカンドオピニオンを経験した時の話。

 

 最初の直腸がんと診断で、がんの切除手術を受けます。もちろん手術前に、遠隔転移の転移がんが肝臓に2箇所あることは説明を受けています。セカンドオピニオンはその直腸の手術後すぐのことで、受けるよう勧められます。

 

 肝臓のがん切除には開腹手術と腹腔鏡手術があり、、その病院では開腹でしか手術ができないとのことでした。別の病院で腹腔鏡手術についても聞くべしという指導。つまりはセカンドオピニオンです。その病院の次の診療までにセカンドオピニオンで聞いて、そのまま手術するか、転院して手術を受けるか決めて欲しいという内容でした。

 

 急に慌ただしくなります。胆管膵外科で通える病院を探し、セカンドオピニオンを受けなくてはいけません。私の希望は副急強手術。ただ、がんの位置が悪いという肝臓転移がんで対応してくれるかどうか。探した結果地区のがん拠点病院での予約が取れました。治療経過と紹介状を持ち、行きますし。その病院の外科部長が治療の経緯を見てくれます。「腹腔鏡手術できますよ」との回答。結果、その病院への転院を決めます。

 

 実は、セカンドオピニオンを受けるまでは、気持ちに逡巡がありました。がん手術まで面倒見てくれた病院に後ろ足で砂をかけるような気持ちがして、気が進まない行為と思っていたのです。

 何せ看護師含め色々とお世話になったのに、希望と少し違うから他へ行きますという行為が気に乗らなかったのです。元の病院では、「そういう気持ちは全く持たなくていい、希望に沿う対応ができるとことに行くには当然」という見解。

 病院慣れしていない私は「そんなものかぁ」と思う他ありません。結果は転院の決定。

 

 転院は正解でした。その後の再発、再再発は同じ病院で治療を進めました。ここまで何度も同病院に治療、化学療法、入院、手術、退院、栄養相談など色々とお世話になり、病院の社風ならぬ院風のようなものが私に合うと感じます。

 

 病にならないと分からなかったことです。セカンドオピニオンは大事だと今は思うようになりました。患者に沿う医療は。自らで見つけていくものなのだと思っています。

がん治療 休職日記 毎日日曜日 オキサリプラチン

 抗がん剤にオキサリプラチンという薬があります。この薬の点滴を受けた時の話です。

 

 オキサリプラチンの副作用には冷たい物に触れると、痛みになるというのがあります。私も同様の症状が出ました。点滴でオキサリプラチンを入れて、病院を出る時、ピューッと風がふくとその風の寒さで全身が痛くなります。

 帰宅後、トイレに行こうとドアノブに触ると、手には痛みが走ります。手洗いに関しても同様で、蛇口の水を温水にしていても、最初は冷たい水。その水で手が痛いです。

 

 その他にも点滴を入れた腕に痛みを生ずると言うものがあります。私も毎回、点滴後は、腕の痛みに悩まされました。兎に角痛い。ひどく痛いのです。

 しかも腕の血管が黒く浮き上がってきます。看護師さんは、「どうしても抗がん剤というのは劇薬なので、血管はやられ、もろくなります。オキサリプラチンは薬を通した腕の痛みもあり、更に同じ血管を使い続けると血管がいたむので、なるべく異なる血管から投薬するのです」と。

 

 「そんなものなのか、仕方ないんだな…」というのが私の感想。しかし痛みは数日続きます、とても酷いものでした。眠っていても自然と体動くと痛みが走り、目が覚めます。ゆっくり熟睡とはいきませn。

 

 今はその薬は使用していません。前回のオキサリプラチン利用時の副作用を主治医に伝え、大変苦労したと話したところ、別の薬を使い治療スタートすることになりました。

 もちろん今の薬で、耐性細胞ができ、がん進行となれなばオキサリプラチンも使用するのでしょう。それまでは私にとっては穏当な薬を優先して使用します。

 

 治療といえど、経験するとで新たな意見も持て、治療に反映できます。言われた通りにやえれば良いし、そもそもよく分からないし、主治医がそう言うのなら別にいいやとして、自身の身に起きたことも何も説明しないと苦労するばかりです。

 

 今の私は、日常を保ちながら治療する状態です。その日常が壊れたら本末転倒。治したい病気と向き合いながら、維持したいものを維持できるように話し合います。それが今のがん治療なのでしょうし、そう学びました。

 治療は個別対応。患者ごとに症状が異なります。その患者である私は、患者として自身の症状を伝える責任を持っていると思うのです。